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元点、起点、出発点<日本橋> [研究日誌]

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五街道の起点、日本橋。昨今は五街道と言わず「~道中」と呼ばれるケースもあります。

ネーミングや定義をコロコロ変えるのはやめてほしい。

決めた人、或いは変更した人(?)に聞きたいのですが、鎌倉幕府が成立したのは源頼朝が征夷大将軍の宣下を受けた1192年(建久三年)ではないのですか?

勿論その前に実権を握っていたというのは事実でしょうし、大切ですが、幕府を開いたのは1192年ですよね。幕府を開くことができるのは征夷大将軍ではないのですか?実力者となるのは別問題だと思います。

Wikipediaの記事によると、次のようです:
朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年(1185年))で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる公文所(のちの政所)開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で幕府は諸国の治安維持を担当したものの、当初は特に西日本では朝廷およびその出先機関である国府との二重支配状態だったが、次第に範囲を拡大。承久の乱や元寇を経て、全国的な支配権を確立するに至った。

では、徳川家康はどうでしたか?

1596年(慶長元年)正二位・内大臣
1598年(慶長三年)豊臣秀吉死去→実力者となり、諸国仕置きを実行
1600年(慶長五年)関ヶ原合戦
1602年(慶長七年)従一位
1603年(慶長八年)右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下→ここで幕府を開く
1603年(慶長八年)右大臣辞任
1605年(慶長十年)征夷大将軍辞職。源氏長者・奨学院別当は手放さず
1614年(慶長十九年)朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退
1616年(元和二年)太政大臣

実質的に全国に命令を出せるようになったのは豊臣秀吉の死後ですが、ここで幕府を開いたとすることはないですよね。

源頼朝の政権が成立した時点を基準にするなら、「源氏の政権成立」とか「源頼朝政権成立」とすべきで、「その後、彼は征夷大将軍の宣下を受けて、鎌倉に幕府を開いた。以降、鎌倉時代と言う」として、やはり幕府を開いたのは1192年でいいのではないでしょうか?

2024/02/10<晴>
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